「原点は愛情こもった家庭料理。また学生食堂のあの気軽な雰囲気も大好き」と語る大場さん。気取らず、美味しくさらにお手ごろな値段で中華料理を楽しんで欲しいという思いが熱く伝わってくる。青葉区上杉に「中華屋」をオープンしたのは昭和61年のこと。以来今日まで一貫して〈敷居の低い店づくり〉をめざしてきた。ひとりでは入りにくかったり、そうそう気安くは足を運べない高級店ではなく、かといってファミリーレストランのような簡易な調理法で提供する店でもない〈大場オリジナルの中華屋〉スタイルを築いてきたのである。ベースになっているのは、料理に使うスープだ。化学調味料系のエキススープに頼らず、中華の基本であるトリガラスープをしっかりとっている。各店舗ごとに職人が朝と昼の二回、手間ヒマを惜しまずダシをとる。スープにかける情熱はひと一倍強い。コンセプトである「B級中華を極める」ことは、トリガラスープへのこだわり抜きには語れない。
もともと料理人をめざしていたわけではない。高校の時は音楽にのめり込みバンド活動に夢中だった。ペンションのオーナーや喫茶店のマスターに憧れていた時代もあったのだとか。ところが大学進学のため予備校に通っていた時に実家が倒産するという憂き目にあった。否応なく自立せざるを得なくなったのだ。岩出山町から仙台に出て来てまず始めたのはアルバイト探しだったという。
仙台駅前にあった丸光デパート(現・さくら野百貨店)の傍らの「政岡食堂」で雇ってもらった。手に技術があるわけではなく、時給330円で朝の9時半から夜中の12 時まで働きづめの毎日だった。しかしその時に初めて中華料理の世界を垣間見ることが出来、そこで仕事する職人さん達との交流も生まれた。たった2年の経験だったが、後々の商売に大きな影響を与える宝を手にすることが出来たのだった。
それからもうひとつ、この時期に大場さんは人生最高の幸せを掴んでいる。高校時代から付き合い、常に心の支えになっていた朱実夫人と若干19才にしてめでたくゴールインしたのだ。今自分が置かれている状況や若すぎるといったマイナス要因を撥ね退けての結婚だった。10代の頃からすでに常識に捕らわれず自分の信じる道をひたすら走ってきた人なのだと思う。
結婚後は酒の問屋に就職し、営業を通して商売のコツや勘を養っていった。そしていよいよ 28才の時に独立。宮城県庁裏手に「中華屋」をオープンさせ繁盛店へと育ててゆくのである。その後は食のプロデューサーとして6店舗を順次出店し、人気店としての地位を不動のものにしている。仕事柄、美味しいものを知り尽くしている大場さんに『最後の晩餐』として食事は何を選ぶかと聞いてみた。答えは「素うどん。ネギの入った温かいのをね」だった。気取らず、それでいて基本を大切にする大場さんらしい答えだった。