「福祉面で宮城県は先導的な役割を担っています。今後もっと推し進めていかなくては…」。
知的障害者の自立を支援するために、NPO法人として全国初のグループホームを設立、運営。
その入居体験ができる画期的な「とまり木制度」にも評価を得ている。
こうした福祉活動については、「ダウン症の娘を授かった親としてのライフワークですね」。
穏やかで、丁寧な話しぶりが印象的だ。家族で北欧を訪問し、先進の福祉施策や本来のノーマライゼ
ーションに触れてきた。「日本も、たとえば親が先に逝っても、障害児が自立して生きて行けるような社会であって
ほしいのです」。人権尊重はもちろん、家族内での子離れ・親離れが必要と説く。その目標を見据え、ヘルパーの養
成や障害児の就労支援など、活動は幅広く意欲的。「これからは、行政とNPO、NGOが協力して進める時代になる
でしょう」。物腰はソフトながら、太くしっかりした『芯』が伺える。
本業は、仙台市内6校に約700名の塾生を抱える予備校の塾頭だ。「アパートの一角でゼロから始めたのですが、
時代がマッチしたのか、みるみる生徒が増えましてね…」、謙遜しながらも、『理解するまで教える』という単純で難
しい教育方針を披露。「今の学校の40人学級教育ではかなわない、科目ごとの習熟度別にきめ細かな指導を徹底しています」
と自負する。多忙な毎日でも、現場への熱意は並々ではない。
「今の学校は『ゆとり教育』のはずが、子どもたちの学力が落ち込み、とても危機的な状況です」。これまでの
日本の教育がノーベル賞受賞者を輩出してきたという実績も踏まえ、かつ学校教育の新しい可能性を追求する。
「子どもや親が先生や学校を選んだり、教える側にも縛りのない、自由なスタイルの学校があってもいいと思いますよ」。
淡々と発する言葉はひとつ一つが熱く、研ぎ澄まされている。
幼い頃からド・ゴールやケネディーに憧れ、大学では政治学ゼミを専攻、夢は弁護士か政治家だった。
'93年、福祉改革を訴えて宮城一区から衆院選に出馬したが敗北。同年と'97年の知事選では無党派の浅野氏を応援した。
「大きな挫折感も味わいました。でも政治にはいつも目を向け、常に刀は研いでいるつもりです、鞘から抜かずに終
わるかもしれないけれど…」。なんとも格好良い決め台詞ではないか。
50歳になって思うこともあるという。「昔は感じなかった、花の美しさやクラシック音楽の良さがわかるよう
な気がしてきました。がむしゃらに進むだけの人生もどうかと思ったりね」。表情がふと優しくなった。思うに、
感受性が高まるということは、人間の幅が広がることになる。従ってその実は、硬軟の両刀を磨くことになるはずだ。
いつの日か、その凄腕を振るう舞台が整ったら、大いに応援したい。