「おふくろが仙台の花京院近くで食堂を営んでいたので、高校生の時から調理や出前の手伝いをよくしていましたね。気前の良い母親で、私の友人が遊びに来るとラーメンをご馳走してくれたものです。いい思い出ですね」と語る佐藤さん。言葉の端々から昭和の懐かしい空気が伝わってくる。事業が思わしくなかった父親に代わり、母親が食堂を切り盛りして5人の子どもを育て上げたこと、また佐藤少年が町なかにある小学校に転校した際には、当時の花形だった鼓笛隊に出会いカルチャーショックを受けたことなど、日本人が、決して豊かではなかったが楽しく逞しく生きていた時代の風景が心を駆け巡ってゆく。
そんな環境の中で成長したので、高校卒業後は自然に調理師の道を目指したという。
「若い頃は自分の我がままや短気のせいで5つの店を転々としましたね。最後に人間的にも素晴らしい料理長の下で働くことができました。その頃からですかね、少しずつ世の中がわかってきたのは…」と笑いながら話す。調理師の道に入ってちょうど10年、節目の時にさらなる飛躍を求めて仕出し弁当の会社に入社。自ら志願して営業の世界へと突き進む。28才の時だった。
佐藤さんが営業の仕事に就いていた頃から経営者となった今日まで、つねに座右の銘として大切にしている言葉と精神がある。『自分にとって価値ある目標を、段階を追って実現することが成功である』〈ポール・j ・マイヤーの提唱〉
入社後すぐに、自分にとっては前代未聞の数字である”800食“のおせち料理を受注するという目標をたてた。これは自分への挑戦でもあった。秋の初めから行動スケジュールを事細かに書き綴り、ひとつひとつ実現に向けて動き出した。まさに24時間体制で、寝る暇も惜しんで体力の限界までひた走ったという。結果、目標を見事に達成。大きな自信が胸いっぱいにひろがった。当時のスケジュール表は、今も宝物として残してあるそうだ。
昭和61年、35才で独立。法要膳を中心に各種お膳、仕出し弁当を製造販売する『味の金魂』を創立。魂を込めて料理をつくるという気持ちで命名した。平成12年からは、在宅高齢者配食サービスや病院配食の分野にも進出。特にお年寄りに対しては、お弁当の配達だけでなく、話し相手や安否の確認などの大切な使命も兼ねており、商売は抜きで社会奉仕のつもりで取り組んでいるのだとか。
本年4月より、仙台市から営業権を譲り受けて、天然温泉の宿『茂庭荘』と旧伊達邸『 景閣』の運営に当たることになった。味わいにさらに磨きをかけ、おもてなしにも新風を吹き込んでお客様をお迎えしている。長いこと市民の憩いの場として親しまれてきた茂庭荘。見事な日本庭園と格式のある建物の 景閣。結納や長寿祝いなど思い出に残る一席に、また法要など遠方よりの親族が集まる機会に、利用してみたい。
苦労をばねに無我夢中で働いてきたという佐藤さん。苦は楽の種であることを、その人生から学ばせていただいた。