老舗材木店の3代目として昭和20年仙台に生まれる。父の商売をする背中を見ながら、従来通りの材木店では、工務店の注文を受けるだけであり、今後の存続が難しくなってゆくことを肌で感じとっていた。そして大学卒業後、父の反対を押し切り、勘当同然に自分の決めた道を歩むことになる。まず2年間は東京の木場で丁稚奉公。その後大阪の住宅メーカー『エス・バイ・エル』に入社。そこで3年間修行した後仙台に帰り、新事業としてプレカット工場を創業すべく準備をすすめていた。その過程で紹介されたのが、浜松にある一条工務店の当時社長であった大澄氏だった。大澄氏からは「工場をつくっても自社で受注するシステムがないと結局は下請けになってしまう」とのアドバイスを受ける。一条工務店は、一筋に住宅だけをという理念をもつ企業である。材木店の継続のためにも住宅を手掛けるべきと、このときの出会いを縁に、昭和62年、一条工務店宮城を設立するに至った。
今でこそ全国的に耐震住宅が注目を集めるようになってきたが、一条工務店宮城ではいち早く免震住宅に着手してきた。自信をもって提唱しているのが、「夢の家I-HEAD構法」で、木造住宅に求められる健康・省エネ・耐震耐久といった要素をすべて満たした高性能住宅として高い評価を得ている。また、新年キャンペーンの全館床暖房のご奉仕も人気の的とか
峯岸さんのモットーは常に社会に必要とされる企業をめざすこと。そのためにはまず何をするか大いに悩むべきだという。悩んであたりまえ。人間は悩まないと成長しない生きものらしい。そこを乗り越えるには、次に頭を使うこと。学習することが能力(実行力)につながってゆく。つまり悩力→脳力→能力の法則が今日の峯岸さんを大きくしてきた原動力といえそうだ。
若かりし頃に木材をかついでお客様のところをまわっていたとき、お父さんによく言われた言葉が「作業はするな、仕事をしてこい」だった。「おやじは現役社長でずっとやってましたが、早くから子離れをしてくれたと思います。だから私は30代から40代くらいで経営のバトンタッチができたんです。その点は感謝してますね」と語ってくれた
昭和62年に創業した一条工務店宮城は、今年で18年目。あと2年後、20周年・200棟をめざして、今若い人材の育成に情熱を注いでいる。どんな時代でも商売は人と人との信頼の上に成り立つもの。社員が信用されないと、企業も商品も生き残れないという。
趣味はゴルフ。オフィシャル13。ホールインワン2回の記録をもつ。もうひとつの楽しみは大海原のロマンであるトローリングだ。はじめて挑戦した時に72キロのキハダマグロを釣り上げ、その時の感動が忘れられずに51フィートの船を購入したというから趣味の世界も豪快だ。一年間に16本のカジキマグロをあげて日本一になったこともあるし、2002年には205キロの超大物カジキをあげたことも。仕事はもちろんであるが、遊びにも「本物」を追求してやまないこだわり派であるようだ
インタビュー/石川恵美子 カメラ/斉藤 肇